怒ったひと
 にたにたと笑う男が気持ち悪かった。  また随分嫌な取調べに当たってしまったものだと、警官は内心ため息をついた。  仕事なのだから仕方ないが、それでも割り切れないものがある。  壁際に立って、彼はよく見知った刑事の背中を見る。  高木という刑事はこの警官が知る限りでも、捜査一課の中で一番温和な刑事だ。  その背中の向こうに、さっきからずっとうつろな目できょろきょろする男が座っている。  人を殺して遺体を遺棄した疑いで、今日逮捕された男。  落ち着きの無い態度で、高木の丁寧な質問に不明瞭な受け答えしかしないでいる。  見ているこっちがイライラするくらいで、よくこの人は真面目に取調べができるなと彼は思った。  いや、そこに未だ刑事になれない制服警官との違いがあるのかもしれないが。  仕事は何をやっている、一人で住んでいるのか、いつ被害者を殺したのか、 どうして殺したのか、どうやって遺棄したのか。  それらの質問にあやふやな答えを残したまま、高木は次の質問に移った。  彼は取調べ開始から変わらない態度で、柔らかい物腰のまま男を見据える。  かれこれ一時間くらい経っていた。 「貴方は被害者を殺した後、右腕をどうしたんですか? 遺体には右腕だけ無かったんですけど」  それは自分も知っている。  心の中でそう答えながら、警官はマスコミが食いついていたネタを思い返した。  右腕が無い状態で遺体は山中に遺棄されていたらしい。 「ああ、……そんなに知りたいか?」  突然、男の声色が変わった。  今まで酔っ払ったような口調だったのが、急に強い意思を持った声になったような。  勿論、高木もその変化に気付いているようで、しかし態度は崩さず続けた。 「そうですね。知るためにここにいるんですし」 「仕方ねえなあ」  何様だ、と彼は言いそうになるがぐっと我慢する。  数秒の沈黙。  だらりとパイプ椅子にもたれていた男がもったいぶるように座りなおす。  そして机に片肘をついて、にかっと笑った。 「食っちまった」  その言葉に、警官と取調べ内容を記帳していた刑事は目を見開いた。  食っただと? 人間を?  脳内で男の証言を警官はリピートさせるが、事実として認識できなかった。  必死に平然さを装ったまま、記帳する刑事と思わず目を見合わる。  しかし、まだ高木は変わらない。  そこがまるで公園のベンチであるかのような、のんびりとした口調だ。 「食べたんですか」 「ああ」 「本当に?」 「ああ食った。何なら俺の胃袋でも見てみるか? 三日前のことだし、まだ残ってるかもしれねえよ」 「何で食べたんですか」 「そりゃあお前、食いたくなったからに決まってるだろ」 「では、何で食べたくなったんですか」 「俺があいつより強い証拠だ。俺はあいつより強いから、あいつを食えたんだ」 「なるほど。文字通り弱肉強食というわけですか」 「そうそう、それ。ジャクニクキョウショク。あんた上手いこと言うなあ」  何が楽しいのか、上機嫌に男は肩を上下させた。 「俺は強い。あいつより強いんだ」    笑い声はエスカレートし、この部屋一体に男の声が響き渡る。  被害者とこの男の間に何があったのかは、捜査官ではない彼にはわからない。  しかし、人を殺して食っておいてその笑いは無いだろうと、薄ら寒くなった。  耳に入ってくる笑い声が気持ち悪くて、耳をふさぎたくなる。  記帳している刑事も同じ心境なのか、男から目を背けていた。  一方高木はどんな顔をしているのかは、背中を向けているので伺えない。  その代わり、抑揚の無い声だけが拍子抜けに聞こえてきた。 「でも、それだと貴方が彼より強いという証明にはならないかもしれませんよ」 「ああ?」  予想外の言葉に、高木以外の警官も含めた三人が眉をひそめる。 「貴方の胃袋に彼は入ってしまったんですよね?」 「そうだ。弱いあいつを強い俺が食ったんだ」 「じゃあ、強いとは限りません」 「何でだ」  何故か強さに固執する男は、先ほどまでとは違い、低く唸るような声を出す。  構わず高木は言った。 「貴方が彼を食べたのなら、同時に彼にもなったんです。だって貴方の中に彼はいるんですから」  男の目に不安と言う色がよぎる。 「違う、俺はあいつを食った。だからあいつはいない。どこにもいない」 「それは変ですね。僕は今確かに胃袋に入ったのかと聞き、あなたはそうだと答えたじゃないですか」  男の肩が小刻みに震えだす。 「違う、違う、違う!」 「彼は貴方の体の成分となり血となり肉となるんです。貴方の言う弱い彼が、貴方の中にいるんです」 「黙れ!!」  彼の話は止まらない。 「だから、僕は貴方に指をさしてこう言えるんですよ」  すっと右の人差し指を突き出した。 「貴方は弱い」  指をさされた男は、真っ青な顔のまま呆然とした。  焦点の定まらない目を高木に向けて、ぶるぶると口が揺れている。  絶望的、というのはこういう顔のことだろうか。  高木はそんな男を置いて立ち上がった。  そして記帳している刑事に「出ます。あと目暮警部を呼んできます」と言って、ドアを開けた。  警官も丁度交代だったので一緒に出ると、代わりが中に入る。  方向が同じため高木の後ろをついていく形になった。  気付いた高木が歩きながら振り向いて声をかける。 「交代ですか? 長い間お疲れ様です」 「高木さんこそお疲れ様です」  会釈すると高木も軽くお辞儀する。  こういった立場関係なく丁寧な態度を取る彼に、警官は好印象を持っている。  すぐに捜査一課の一室が見えてきたが、先ほどから気になっていたことがあった。  相手が彼だったので、黙ったまま別れず思い切って聞いてみることにした。 「あの、珍しいですよね」 「何がですか?」 「ああやって、犯人に言ったのが何と言うか……その、高木さんにしては結構ずばっと」  この刑事が優しいのは十分知っているし、同時に取り調べの時は案外厳しく罪状を追求することも知っている。  だが、今回のように犯人の心をえぐるような台詞を言ったことは、無かったような気がするのだ。  そう、人を傷つけるようなことを。  警官の意図を悟ったようで、高木は「さっきのやつですか」と困った顔をした。  即座に聞いてはいけないことだったかと思い、取り消そうとする。  しかし、その前に意外と早く彼は答えてくれた。 「ああいう人に、普通の怒り方とかしても理解してもらえませんからね。こういう時は、 相手と同じ目線で同じ理屈でモノを言ったほうがいいんです」  なるほど、と神妙に頷くと彼は「それに」と付け足した。  顔が少し寂しげだ。 「多分彼は心神耗弱状態で不起訴になる」  人を食った時点で、それは確定だと警官も思う。  あの男は狂っている。  無罪放免でせいぜい病院にぶち込まれるのが関の山だろう。  しかし、それをなぜ今言うのか。 「誰にも彼を罰することは出来ないんですよ」  そこで彼の真意に気付いた。 「じゃあ、もしかして高木さんは……」  今のうちに、彼を罰したのか。  これから、誰にも罰せられない彼を。  人を食べて強くなったと思い込んでいる男に、「弱い」と言うことによって。  もしかしたら、普通に懲役を科されるよりもよっぽど恐ろしい方法で。  そんな警官の心を見透かしたように彼は苦笑した。 「僕はそこまで良い身分じゃないよ」  警官にその意味は掴み取りにくかったが、彼が実はかなり怒っているのではないかということはわかった。