暖かみの側で安らぎを 後編
 事件の数週間後。  学校帰りの学生が乗った自転車が歩道を走り去る肌寒い夕刻近く――  まだ暖房を入れる時期でもないため店内も少しひんやりとするスーパーの中に「彼ら」はいた。  彼らとは勿論佐藤と高木のことだ。  サッカー台の前で明らかに力関係のわかるやり取りをしている。 「僕が持ちますよ、佐藤さん〜」 「いいのいいの。何のために私が一緒にいるっていうのよ」 「とは言いましても……」  白ねぎの青い部分が飛び出したエコバッグを片手に、彼女が隣にいる彼を見上げた。  軽々と持ってはいるが、お米やら白菜やらが入っている袋を女性が手にして、 一緒にいる男性が手ぶらなのは端から見てもどこかばつが悪い。  しかし佐藤は頑として譲らない。  あの事件で高木が怪我を負ったせいである。  数週間前繰り広げられた逃走劇において、車同士がぶつかった容疑者と高木は救急車で運ばれた。  容疑者の男はその後、回復を待って殺人の容疑で逮捕された。  ついでに道路を逆走した道路交通法違反で再逮捕だ。  やはり彼はあの夜、このままでは捕まるのも時間の問題と思い、逮捕状が出る前に東京から 高飛びでもしようとしていたようだ。  そこに検問中の交通課ならともかく、刑事課の刑事がやって来たので咄嗟に逃げたという。  一方、全身を強く打った高木は二週間入院をする羽目になった。  退院した後も暫くコルセットを巻かなければならず、今は専らデスクワークである。  更に、普段の生活にもその後遺症は支障を来した。  腰を痛めると全身の力が入りにくいので買い物をするのも一苦労だ。  だから、佐藤がこうやって手伝っている。  入院中も仕事以外はほぼ見舞いに赴き、退院後は夕食を作りに行ってあげたりして、彼の生活をサポートしていた。  高木も最初はそんな厚意に恐縮し通しで遠慮もした。  しかし怪我で生活に支障があることには違いなく、彼女のおかげでだいぶ助かることも事実なので、 そこまで強く押し返すことも出来なかった。 「これは私がしたくてしてることなんだから。ね、お願い」 「……じゃあ、お願いします」  この押し問答も何度繰返したことだろうか。  お互いの性格上止められない事なのかも知れないが。  結局いつもの通り彼女がバッグを持つ形で収まり、スーパーを出た。  今日発売のPC雑誌が買いたい彼の希望に従って、いつもよりゆっくりとした歩調でコンビニへ向かう。  困りきった顔をぽりぽりとかく彼の左手首には白い湿布。  それをちらりと横目で見た佐藤は、目を悲しげに細めて再び前を見た。  彼女は表に出さないだけで、ずっと気が沈んでいる。  彼に怪我を負わせてしまった時から、ずっと。  あの時自分が無理やり相手の車に向かわなければ。  もっと冷静に違う対処をしていれば。  焦らなければ。  ぐるぐると、そんなことが頭に渦巻いているのだ。  周囲には気付かれない様に努めていたが、高木にはやはりわかるらしい。  「お互い自分があの時最善だと思うことをしたんですから」と入院中彼女に言っていた。  仕事上のやむを得ない事故だと、いつもなら数週間も経てば割り切ることもできたはずだ。  それが今回、未だに彼女の心には暗い色が落とされている。  ふっと気が緩んだ瞬間、心の中にもやもやとしたものが棲んでることを自覚するのである。   何が彼女をそうさせているのか。  実は、ここまで長引いているのには、彼の怪我以外の原因があったりする。  流石の高木でもそれには気付いていないだろう。  彼女自身、その原因を言う気はさらさら無かった。  コンビニに入った彼らは雑誌売り場に向かった。 「佐藤さんも何か見たいものあるんですか」 「ええ。ちょっと買おうか迷ってるものがあるから……」  売り場に着くと高木は意中の雑誌があることを確認する。  対する佐藤は隣の女性雑誌のコーナーで目を彷徨わせた。  その目の大体中心にあるものは普段の彼女からすると珍しい類だった。 「……一応由美から聞いてはいたんだけど、どれもこれもおんなじに見えてしまうわね」  煌びやかにモデルが着飾っているファッション雑誌を見つめて彼女が唸る。  いつもショップに入ってから気に入った服を買うことが多いので、  雑誌を購入し色々頭の中でコーディネートするという経緯はあまり通らないからだ。  それを知っている高木は横から聞く。 「なんか、服を選ぶような予定でもあるんですか?」 「んー……別に。ただちょっとは服も考えないとなあって思っただけよ。いつもスーツだし、 それ以外の服が極端に少ないし」 「はあ」  彼は何となく腑に落ちないものを感じたが、そこまで気にすることでもないと思い直し 目的以外の雑誌にも手を伸ばした。  佐藤もいくつかの雑誌を手に取り物色する。  その目は「別に」で済まされる様ないい加減なものではない。  実はここに、彼女の落ち込みが長引いているもう一つの原因があるのだ。  そう、それは―― 『高木が入院していた時に予想以上のお見舞いが来たこと』  しかも大半以上が女性から。 「警務課婦警一同」 「交通課婦警一同」 「生活安全課婦警一同」  等等、警視庁内の女性から団体で果物や花束が届いた時は少し意外だったものの 「まあ、彼って誰にでも優しいしね……」と納得した。  が、ケータイ番号と名前が裏に書かれてあるお見舞いカードを果物のバスケットの中から 数枚見つけたときは流石に驚いた。  更にはどこから聞きつけたのか、以前事件で出会った関係者の女性数人からも 見舞い品が届き(その中の手紙にも連絡先はばっちり書いてあった)、挙句の果てには高木のマンションの 近所の御老女(死んだ夫の若い頃に似てると言う)がお守りを渡しにやってきた。  何となく自然の成り行きで、動けない高木の代わりにそれらの受け取りと礼を佐藤が行っていたのだが 内心面白く感じないはずがない。  しかも、見舞いに訪れた女性に対して、自分がいわゆる彼女ヅラをしたことも我ながら意外だった。  どんなアプローチも意味がないと、知らしめたかった自分がいた。 ――まだまだ私も小さいわね……  入院時の自分の心境を思い出し、隣の彼に気付かれない程度にため息をつく。  あの時は「高木の恋人」として振る舞いにこやかに見舞い客へ対応した。  だが相手の綺麗な服装、それこそ目の前の雑誌に載ってるモデルが着る様なお洒落な服で やってくる女性達と、自分のぱっとしないカジュアルな装いを比べて少なからず危機感を覚えたのも事実だ。  無茶な追跡をした挙句怪我を負わせる、服装も可愛くないし綺麗でもない女。  こんな自分にいつ高木が愛想を尽かすとも限らない。  思ってた以上に自分は、彼が離れていくことに怯えを覚えてるらしい。  熱くなりやすい性格をすぐには改められない分、格好くらいは可愛くしようと思うくらいに。 ――自分らしくないことは、わかってるわよ  誰に言うでもなく、心の中でため息をつく。  それでも自責の念と危機感から来る怯えは消えないのだ。 「あのー、佐藤、さん?」 「え?」  心そこにあらずだった彼女を現実に呼び戻す声がかかった。  気付かないうちに考え込んでた佐藤は間の抜けた返事をして顔を上げる。  上げた先には、心配そうな目をする彼の顔。 「ずっと同じ一点を見つめてましたけど……最近ずっと僕に付き合ってて、やっぱ疲れてるんじゃないですか?」  その表情を伺うように背をかがめて、躊躇いがちに彼は問う。  慌てて彼女は首を横に振った。 「そんなことないわよ! ちょっと考え事しちゃっただけ。そうだ、高木君どっちの雑誌が良いと思う?  私に合うほうっていうか……」 ――着て欲しいっていうか……  話をそらすのと同時に、勢いで思わず本心が漏れた。  こんなこと聞くのが恥かしくて流石に最後の台詞は心の中だけに止めたが、 咄嗟に隣り合った二冊の雑誌を指で指し示した。  モテカワ系かカッコキレイ系の雑誌。  分けるならそんな感じだ。  聞かれた側はそんな彼女の心情には気付かず、指された方向に素直に目をやった。  そしてあまり間を置かず、 「佐藤さんなら何着ても似合うと思いますよ」  彼女はずるっと後ろにのけぞりそうになる。  嬉しい答えだが、本当に欲しい答えはそれじゃあない。  どう言ったものか迷いながらゆっくりと説明する。 「えーと、そういうことじゃなくてね。高木君はどっちのほうが好みっていうかそのー……」 「あ、僕も、言い方少し違いました」  佐藤の言葉を遮ってから、彼が少しだけ天井を見上げる。  彼も何かを躊躇っているかのような態度だ。  しかし、それも数秒だけのこと。  意を決したように再び彼女のほうを向いた。 「……何着ても、佐藤さんなら全部好きです」  一瞬で、本当に頭が沸騰したと彼女は感じた。 「なんか、ずっと前から悩んでいる感じでしたよね。佐藤さん」  ぽつりぽつりと、だが真っ直ぐに前を向いて言葉を紡ぐ。  やはり彼は彼女の異変に察していたのだ。 「あの事故のせいかなとも思ったけど、それだけでもなさそうですし、……外見で迷うことも今まで無かったですし」  上手く伝えきれない部分があるのか、必死な目が彼女に何かを訴える。  彼女はそんな目から逸らせない。 「貴女が何を考えているのか俺には良くわからないかもしれない。――でも」  次の言葉で、彼女はトドメを刺される。 「今のままでも、十分佐藤さんは僕にとっての佐藤さんですから」  そこで、彼の言葉は終わった。  たどたどしくも必死な思いを込めた言葉が。  しかし彼女からの反応はない。  口をぽかんと開けたまま、ゆでタコのような赤い顔で呆けている。  変なこと言ってしまっただろうかと彼は焦る。 「さ、佐藤さん?」 「……バカ」 「へ?」 「ホント、大バカだわ」  何かを腹立たしいと思うかのように今度は目に見える形でため息をつく。   「あ、やっぱり僕おかしいこと言ってましたか……?」 「違うわよ、私が大バカの大バカだって言うのよ!」 「ええ!?」  彼女は顔を真っ赤にしたまま、彼の手からPC雑誌を奪うように取り去る。  そのままずんずんとレジまで行って、中に引っ込んでた店員に「買いたいんですけど」と呼ぶ。  慌てて財布を出そうとする彼を背に、それよりも早く千円札を出して清算を済ませた。  店員のお辞儀も待たないうちに早足で自動扉から出るが、そこで彼女の勢いはぴたりと止まる。  後ろからコルセットを巻いた体でおたおたとやってくる彼のことを考えてだろうか。  たまにくる痛みに堪えながら追いついたその彼は、彼女の突然の怒りように疑問符で一杯だ。 「あ、あのー……」と、もう一度声をかけようとしたが、それは佐藤の背中越しの一言によって遮られる。 「ありがと」  その四文字だけが、恐らく高木に向かって投げかけられた。  何に対しての礼なのかわからず、彼が戸惑う。   そして彼女は振り向いた。  先ほどの悩んだ顔でも怒った顔でもなく、何かが吹っ切れたような澄んだ笑顔で。  夕日でわかりづらいが、まだ若干顔は紅潮している。 「高木君の言うとおり色々考えてたけど、もう大丈夫だわ」 「……そうですか」  それ以上彼女はその「色々」については答えなかった。  一方の彼も言及はせず安堵の表情を浮かべた。  これだけで彼らは十分ということなのだ。  互いが心からの笑顔でいれば、それでもう全てが。  帰りましょうかと高木が笑いかける。  頷く佐藤がその隣に寄り添った。  どちらから言うでもなく手をつなぎ、夕日の照らす道をゆっくりと歩き始める。 ――結局、私は「高木君」じゃなくて「高木君の周り」を見ていたのかもね  だが、こうやって彼の側にいるのが自分だと思うだけで、今はとても安心できるような気がした。  先ほどまで感じていた怯えはもう無い。   「そろそろ寒いですね」 「あら、私はあったかいわよ?」 「ええ?」    今の自分が感じるのは、繋いだ手から伝わる暖かさだけ。