もう一つの
誰もいなくなった広い部屋で、彼は一人パソコンを叩き、画面を見つめた後 背中を椅子の背もたれに預けた。 安物のそれは金切り声をあげる。 「アポトキシン…」 画面に出てきた名前を呟く。 先ほどとあるホテルの火災現場から拾ってきたMOを立ち上げて出てきたものだ。 精密機械には全く疎い上司に「これは鑑識に持ってって、一緒に調べてみます」と言ってさりげなく自分の懐に入れていた。 そして、そのまま鑑識にはすぐに持っていかず、自分のデスクで開いた。 薬学にはそこまでの知識は持っていない。 が、情報系には捜査二課と同等かそれ以上の腕を持っている自負はある。 おかげで画面に記されているデータが何となく理解は出来た。 プログラム細胞死の誘導、テロメアーゼの活性化、細胞増殖能力の高度化。 「……毒薬か?」 途中まで読めば、そう受け取れる。 だが、データの最後には全く違う結果が生まれていた。 その途中と最後の間の経緯を理解しようとするが、限界があった。 これ以上は自分の力では無理だ。 そう判断して、彼はファイルを閉じる。 すぐに鑑識に持っていくべきか、そのまま持ち主に返すか。 彼は少しだけ迷う。 道徳的な観点ではない。 損得の観点での迷いだ。 このMOは、誰の手に渡るのが一番有効だろうか。 「おいおい、現場のものを勝手に持ち出すなよ」 顎に手を当て考えをめぐらす彼の背後に、静かながらたしなめる声がかかる。 その声の主が元々わかってる彼は、振り返らず答えた。 「やっぱりあなたが現場担当になったんですね」 「そりゃあ火災だしな」 おかげで今夜は徹夜になりそうだ、と男は肩をまわして乾いた音を鳴らす。 「で、何でそのソフトを持ち帰ったんだ?殺人犯専門のお前が」 「その殺人事件で気になる人物を何人か見かけたんですよ。多分、直後に起こったあの不審火もそれに関係しているはずです。 そんな不審火の跡から出てきた、場違いなMO。気になりません?」 パソコンからMOを取り出し、彼は薄いそれをひらひらさせた。 男は若干焦げた跡があるMOを見て面白そうに目尻を上げる。 「なるほどな。じゃあどうする気だ。その気になるMOを」 「ちょっと考えましたけど、持ち主に返そうと思います」 「ほお、その心は?」 「心も何も、拾ったものはちゃんと持ち主に返すのが筋でしょう」 面の皮一枚へばりついたような正論に、男は鼻で笑いきびすを返した。 「でもお前、持ち主に中身は見てないとか言うんだろ?」 「それ以前に、匿名で返しますけどね。持ち主のポストに投函で」 「そいつはタチ悪ぃな」 返されたほうはたまったもんじゃないだろう、と男は示唆して捜査一課から出て行った。 彼は黙って、そんな同じ「上」の配下の様子を伺いに来ただけの男の背中を見送る。 これから男は現場に戻るのだ。 捜査と同時に様々な「痕跡」を消しに。 「二束のわらじっていうのも大変だなあ」 同じく二束のわらじを履く高木は、他人事のように呟いた。